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こんばんは。前回のポストで燃え尽きたままになっていたので、それじゃあんまりだ、と思いながらも中々更新できずにいました。少し復活しています。

 

近ごろ星野道夫さんの本を読んだり、山の本を眺めたり、先週末丹沢に歩きに行ってきたりして、この慌ただしい毎日はなんなんだろうと考えることしきり。山を歩いていると、大げさなんですけど、一歩一歩が自分の安全や、ときには命と結びついていると実感できることがあって。1人で真冬の北海道や海外に旅行するのが好きなのも、それと少し似ています。真冬に北海道でレンタカーをするのなら、運転する間気が抜けないし、電車とバスで旅をするのだとしたら、接続を逃したらアウト。その緊張感がいいのだと思います。
星野道夫さんの本に登場する人々は、しばしばその死についても書かれているのですが、死ぬ瞬間まで生きているといったらいいのかな、暮らしていることと生きていることが直結している感じなのです。わたしもその感じに惹かれます。
パンやグラノーラやらジャムやらを作るのも、編み物というある意味衣類を制作する行為も、生きることに近いから好きなのだと思う。「手芸」「料理」としばしば「女らしい」代名詞として語られることも多い行為ですが、自分の生活に必要なものを自ら手作りするのは、女らしい行為ではなくて、人間らしい活動なのだと思うのです。
そういう意味で、会社で行っている仕事は、文明や科学の発達によって生み出された人工的な製品を作るお客様企業の、そのまた人為的な仕組みをつくるお手伝いをしているということで、生きることととても遠い行為なのではないかという気がします。ところが、そのお陰で自分は生活している。なにかジレンマを、時々感じます。仕事人として疲れるまで暮らして、その後は余りの人生なのか?と思ったり。
それで、益々星野さんの文章を読んだり、山を歩いたりして、自分が生きていることを確かめる、というか。

 

この感覚はうんと子供のころからあって、冒険物語をよく読んでいたことに繋がっていると思います。子供のころから病弱だったのですが、命の限界のところで生きたいという感覚はずっとあった。とにかく遠くへ行きたいという強い衝動も。

星野さんや植村さんの少年時代の話を読むとやはり同じようなことが書いてあって、人間的に同類なのか、それともわたしが少年的なのか、どちらなのだろうかと考えます。

 

話題は変わるのですが。

人間ポジティブに生きなければならない、と思いつつもどうしてもキライだと宣言したいものが、わたしにはいくつかあります。ポジティブな姿勢を取るとすれば、これらが存在しない美しい世の中をつくるために頑張りたい、とでも言うべき?

その1。ビニールでパウチされたメニューが、レストランのテーブルに張り付いているとき。このパウチされたもの自体がどうしても好きになれない。そういうメニューがテーブルに置いてあるだけで、不思議と食欲が失われてお店を出たくなります。わたしだけ?と思い、いつも不思議になります。ビニールのテーブルクロスも好きではないけど、まだ我慢できる。

その2。お店の外などに立っているノボリ。世の中から根絶したら良いと思うものの1つです。

その3。自動音声。切符を買う時、改札を通る時、電車に乗る時、動く歩道。わたしたちの静寂を返してほしい、と思う。

 

それでやっぱり、また山に行きたいなと思います。

ではまた次回。