引越しをして10日ほど経ちました。今日は引越し以来初めて、1人で過ごした休日でした。まだ残務などがあるものの、おかげさまで殆ど家も片付き、リラックスできるようになりました。

 

最後までかかったのが洗濯機の設置で、2週間くらいずっとコインランドリー通い (夫が)を強いられていましたが、金曜日の夜、眠れないでゴロゴロしている間に無理やり設置する方法を思いつき、土曜日ついに洗濯機が使えるように。まだインターネットが開通していないのですが、それ以外はとても快適になりました。(靴箱がまだないので、靴が1足しかない出せていない問題を除いて。)

いま東山は芽吹きと新緑の真っ最中で、窓を開けているともわっとした緑の匂いがしてきます。まるで庭の草刈りをした後のような濃い香りなのですが、これが緑の多さなのだろうなと思います。昨日は誕生日で、夫が残りの段ボールを片付けたあと、子供を連れて外出してくれました。それでダラダラしながら編み物をしていたら、ふと鶯の鳴き声もしてくることに気づきました。引越してよかったな。


先日もFacebookは主に友人がシェアしてくれる記事を読むのに使っている、と言ったと思います。ニュースもたいして見ていない私にとって、非常に質の高い情報を選んで共有してくれる友人たちの存在は、本当にありがたいものです。金融や社会、ビジネスなど、シェアされている記事はかなりの確率で読むようにしています。今日もそんな記事を読みました。作家の朝井リョウさんのインタビュー記事。正直、日本人作家にあまり詳しくなくて、今日初めて知りました。インタビュー面白かった。

そのなかで一番気になったことは、「言葉の器が小さくなった」ということ。ブログのようなメディアから、Twitter、Instagramと発展してきて、言葉が刹那的で端的になっていった結果、受け止めきれずにこぼれているものが多いのではないか、という指摘。

「扱う言葉が少なくなっているということは、捉えることができているものもどんどん少なくなっているはずで、そこからこぼれ落ちている情報や感情みたいなもののほうが多いはずですよね。だけど、その部分を想像する力が養われる場は増えていない気がするんです。」

  

最近インスタの編み物コミュニティで問題になっている差別の問題。火のないところに煙は立たないと思うし、差別は厳然と存在していることは間違い無いのですが、攻撃もエスカレートしている気がしています。本当は差別の気持ちがある人でもないのに、言葉が足らなかったというだけで攻撃されたり。これが本当のコミュニケーションと言えるのか、個人的にはちょっと不安に思っているのが事実です。

メールやお手紙もきちんとした文章が書けない人が増えていて、言いたいことを短く一言だけ書いて送ってきてくださる方も多くいます。会社勤めしている時もそれを感じていました。多分悪気はないんだろうな、忙しいんだろうな、と想像し、相手の様子を想像で補ってみるのですが、コミュニケーションとして少し寂しい気がしてしまいます。

だからなんだということもないのですが、やはり自分は文章を読み、書く癖を付け、子供にもそうさせたいなと思ったのでした。書く力というのは、本当に大きい。


今日の過去の振り返りは、このポスト。気持ちを新たにしました。