amirisuの次号に掲載を予定しているある文章を読んでいて、私に「文章は力だ」と教えてくれたのは大学の英語教師だったと思い出す。

それは英語の授業というよりは英語でビジネスレターを書く授業で、先生は文法や単語の間違いについて箇所を指摘してくれるのみで自分で直すしかなく、毎週新たなレターの宿題が出るため、学期の終わりには直し続けているレターが8つも10つも溜まっていくという、なんだかババ抜きなのにカードがどんどん増えていくあの感じに似ていた。

その授業のポイントは英語力ではなく、「いかに手紙(文章)で人を動かすか」ということ。アメリカではビジネス上の提案をするとき、仕事に応募するとき、苦情を言うとき、意見に賛同するとき、とにかく一番正式で一番本気に受け止めてもらえるのは郵便で手紙を送ること。今ではだいぶEメールに代替されているとは思うが、それでも手紙の威力は変わらない。アメリカで仕事に応募する際には、履歴書に必ずカバーレターというものを付ける必要があり、電子応募になった今でもその習慣は続く。

先生が教えてくれた一番のポイントは、企業へリクエストや苦情を送る際、要件だけを書かないこと。いかに相手のサービスや商品を愛用していて、自分の生活に欠かせないか、これまで散々サービスを利用してきて製品を愛しているからこそ、ここを改善してほしいのだ、というロジックを呈すること。つまり、1回だけその航空会社を利用した人がたまたま悪いサービスに当たっても、「それはしょうがないよね、まあリピーターでもないお客に良いサービスを提供する必要はない」とあっさり片付けられる可能性があるという、企業側の論理。苦情レターだけでなく、ビジネスの提案でも相手企業をいかに理解しているかアピールすることが必須だということ。

そんなアメリカにはなんと、レターの執筆を代行するサービスが一般的にある。企業の求人の要件にも必ずと言っていいほど「文章力を非常に重視」と書かれている。学校でもライティングの授業は必須。良い文章へのリスペクトは大きい。

この感じは今の自分にかなり大きな影響を及ぼしていて、海外とのやりとりでは相手が驚くほど丁寧にメールを書くことを心がけるし、物のやりとりをするときは必ず手書きのメモや手紙を入れる。だからかつて会社勤めをしていたときに上司や(残念ながらアメリカ人含む)、今はお客様から、要件しか、場合によっては名前も書いていないメールをもらうと、心底驚愕し、頭が真っ白になってしまう。何度もらっても、毎日もらっても、その度に驚愕する。

そして思い直す。文章は力だ。その人たちに力はないけれど、文章を愛する私たちには力がある。